偶然の裏には必ずいくつもの必然がある。
今は昔、2001年、私はニュージーランドでの新しい生活を始動させる場所として、現地の主要な公立高等教育機関(ポリテクニックとも呼ばれる)付属の英語学校の6カ月コースを選ぶことにした。当時、1年半~2年の目安で計画した留学の最終目的は、
‟旅行関係の国際資格を取って、アメリカ人の友人のコネも効きそうなクルージング会社に勤め、大好きなカリフォルニアかフロリダから出向されている豪華客船の船上で仕事をしながら、カリブ海を周遊すること。”
そろそろ日本の歪んだ社会での生活に対して我慢の限界にも達していたこともあり、目標とは名ばかりで、若さゆえの夢ばかりだっが、考えただけでワクワクするような、そんな楽しい夢が実現できるのであれば、特に留学のための行き先は問わなかった。確かにアメリカで仕事をしてみたいと思っているなら初めから留学先をアメリカにしておく方が近道だったのかもしれないが、実はそこにある人との出会いがあったのだ。
ニュージーランドという未知の国について知ったのは、20代前半に経験したボランティア活動がきっかけだった。そこでは多くの外国人、主にアメリカ人たちとともに活動する機会があったのだが、その中にかなりの少数派としてニュージーランド人の男性がいた。私にとって全く予備知識のない国からやってきたその人は、マイペースな性格であるにも関わらず、非常にウィットに富んだ人物であった。彼はアメリカ人には決して醸し出せない、独特でシュールな笑いのセンスを持ち合わせていて、そのくせ何かにつけて妙に現実的なのだ。ほんの数か月ではあったが、私にはそんな彼と話をするのことがとても新鮮・刺激的で面白く感じられた。
ちょうどクリスマスが近くなった時期に、何気なく彼にこんな質問をした事があった。
「ねえ、オーストラリアではやっぱり半袖のTシャツを着たサンタクロースがサーフボードに乗ってプレゼントもってくるの?」
まるでニュージーランド(NZ)をオーストラリア(AUSSIE)の一部とみなしたかのような私の質問に少しいぶかしげな表情を見せた彼は、「自分はニュージーランドから来たから、AUSSIEのクリスマスについてなんて知らない。」と答えた。日本人からしてみれば、ともすればNZとAUSSIEはある意味ほぼ同じだろうと誰もが思うのだが、どうやらそんな私の適当な心理が彼の愛国心とAUSSIEに対するライバル心という琴線に触れたようであった。それにふと気づいた私がとっさに、「あ!ごめんね。でも同じ南半球ですぐ隣だし、クリスマスは似た様な感じなんでしょう?」と言うと、彼はニヒルな微笑を浮かべながら、流暢な日本語でこう切り返してきた。
「いや、いいですよ。全然気にしてないですから。あー!それより、中国では一体どんなお正月を過ごすんですか?教えてくださいよ。」
こんな彼のユーモア性を育んだ小さな南半球の島国には一体何があるのだろう?その時確かにニュージーランドという国に対する私の興味は掻き立てられたのだと思う。
とはいえ、留学先としては決してNZに興味を持っていたわけではなかった。ただちょうど偶然にもその当時NZ$1が54~55円とかなりの円高であることがわかり、これなら経済的に余裕をもって長期戦に望むことができるという、大変考慮すべき理由が発生したのだった。
なけなしの100万円を握りしめて渡航したら、それが現地では$20,000以上の価値になるのだ・・・。
そんな偶発的で単純な考えも、確かに当時の私の背中を押した。
決めた期間は1年半~2年。この半年のギャップは、取得できる学生ビザの長さによって決めるための猶予期間として自分なりに設定した。もちろん、たかだか2年弱で英語をモノにしようとか、グローバル理論を唱える文化人のようになろうなんていう考えは毛頭なく、とにかく当時の日本での霹靂とした生活に一旦終止符を打ちたい一心だった。自分を取り巻く不毛な人間関係や、プライベートと仕事の境目がほとんど分からない勤め先の在り方に、ほとほと嫌気が差していた。当時はそれが「ブラック企業」とか「セクハラ」「モラハラ」なんていう洒落た言葉で表現されることはなく、ただひたすら疑問と腑に落ちない感情を抱えて過ごしていた。もちろん日本での社会人生活は決して悪い事ばかりではなかった。楽しいこともあったし、学んだことは多かった。色々な人との出会いもあった。仕事はどんなことでも比較的要領よくそつなくこなすことが出来て、成績もよかった。それでも職場が「道徳観念(モラル)が完全に欠落した環境」だったことだけは私の性格上どうしても目を瞑れなかった。何度もそれなら自分が環境を変えて行こうと思ったが、「若年・女性」という一見何の変哲もない自分のステータスが、足かせのように私の言論と行動の自由を奪っていた。
今自分がいる環境を変えることができないのなら、自分を全く別の新しい環境に置くしかない。
それがやはり海外だったのだ。
今では当に期限が切れ、穴がたくさん開けらてた当時のパスポート。「2001年7月7日出国」のスタンプが目に入る。
「元気でしっかりやんなさい。」
「ママもね。2年もしないうちに帰ってくるから。」
うだるような蒸し暑い日本から、家族に見送られて旅立ったあの日がまるで昨日のようのことに思えてくる。アメリカでもカナダでもない。首都がどこなのかも最近まで知らなかった南半球の島国だ。頼れる人は神様のみ。そんな新しい環境を求めて旅立った。
NZ人の友人、円高、日本からの脱出計画・・・どれもこれも少しずつ重なった偶然だったかもしれないけれど、それは必然の始まりに過ぎなかったと知ることになるのは、このもっと後のことなのである・・・。