誰かに寄り添って生きること

“Relying on someone throughout your life may sound somewhat cowardly or lacking in self-confidence but it doesn’t mean that you stop being independant and become someone’s burden.  There is nothing wrong with sharing your life with the person as long as the relationship is built upon a great sense of caring, responsiblity and trust. “


結婚に対する意識の高まりは、例えば、赤ちゃんがこの世に誕生した時から自然に母親の温もりを求めるように、人が精神的に自立する年齢に差し掛かると感じ始める、自然な本能の一つかもしれない。私自身もそんな意識の高まりを経験した事がある。

NZに来て二度目の引っ越し先は、通っていた英語コースがあるポリテクニックで知り合った客員教授のお宅だった。敬虔なクリスチャンの家庭で、子供は7人。少子化に拍車がかかる日本人からすれば、圧倒されるところだが、NZの先住民マオリはもとより、主流移民でもあるポリネシア諸国(サモア、トンガ、クックアイランドなど)の人たちにとっては「子供は5人以上」が普通である。

私がこのご家庭の一室へ移り住んだころ、ご夫婦はちょうど4人をハワイの大学へ留学させ、子供たちの自立を全力でサポートしている真っ最中で、まさに毎日夫婦フル稼働という感じだった。二人は常にお互いへの労りを忘れず、子供たちよりも夫婦の時間を大切にしていた。何よりも私が素晴らしいと感じたのは、「自分達の家庭を世の中のあらゆる場所の中で最も安心できる場所にする為にはどんな努力も厭わない」という、ご夫婦の完璧なチームワークだった。そんな両親とともに生活している高校性の子供たちは皆、常に両親に感謝と敬意を払いとても従順で、どんなに忙しくても家族そろって食卓を囲み、ともに時間を過ごすことを忘れないところにも感銘を受けた。

この家族と過ごした約4か月は、それまでぼんやりしていた「人生のパートナー」に対する自分の概念を大きく変えた。夫婦とは、家庭という理想郷を作り上げていくという壮大なプロジェクトを成功させるための総司令塔であり、愛だとか、尊敬だとか信頼だとか、そういった様々な夫婦間の感情のバランスが崩れてしまえばそれで終わりの、ものすごく崇高な人間関係のもとに成り立っているべきものなのだとわかったのである。

結婚に対しては確かに何となく冒険心や好奇心を抱いていたものの、自分が思い描く家庭を築く上で欠かせない、人生のパートナーに対する理想は「ある程度」のものだった。「ある程度」というのは、それが「具体的」ではなかったという意味である。このサモア人一家の下で過ごした時間のおかげで、一体自分は人生のパートナーの候補者に何を求めるのだろうか?と深く考える機会を得ることができた。

例えば、価値観が同じで…心に安らぎを与えてくれて…そこそこの経済的安定を供給してくれて…精神的にも自立していて…優しくて…そんな感じなのだろうか?しかしながら、こんな風に条件を並べて客観的にみてみると「ある程度」の理想だなんてものは、この上なく下らない。

価値観が違っていたら、そもそも人生一緒に歩みたいとは思わない。

一緒にいて安らがない人とは別に一緒に居たいと思わない。

そこそこの経済的安定ほど不安定なものはない。

精神的自立ができていない人と会話したら、自分なら諭しにかかってしまうかもしれない。

そもそも「優しい」の定義ってなんだ?

つまり、こんな初めから分かり切った、くだらない「ある程度の受け身論」を語っている間は、人生のパートナーとの出会いなんて大それたものは実際求めているはずがないのだ。では実際それまで私は何を求めていたのか?それはきっと「自身の喜びの追求」だろう。

昨年末、私より少し年上の、アメリカ人の友人が人生で初めて結婚した。若い頃から私よりもはるかに結婚生活に素直な憧れを抱いていた彼女に、一言お祝いの言葉を述べたくて、彼女に電話をした。その時彼女はこんなことを言っていた。

 

「ずっと一人でいるのが怖かった。老後の心配とか、お金の心配とかじゃなくてね、自分のことばかり考えなければいけない生活が辛かったの。そんな自分の心のケアも自分でしなければいけないし、自分がどんどん自分のことしか考えられない人間になっていくのが怖かったの。今は心を掛けられる相手がいるから本当に幸せだわ。」

 

彼女が人生のパートナーに相手に求めたものは、「自分が心から気を掛け、心配することができるほど愛情を注げる人」それだけだ。ここには「ある程度論」のようなどこまでも身勝手で受け身な条件はなく、「自分と違う誰かを受け入れて愛することができることへの感謝と喜びを感じたい」という人間としての本来の自然な欲求だ。

精神的に自立している成人たちは、一人で過ごす時間が長くなるにつれ、そしてそれが心地いいと感じる度合いが大きくなっていくにつれ、自分以外の人の幸せや喜びを自分の喜びとする感覚が鈍くなっていくものである。それは言い換えると、日々の生活の中で自分以外の誰かの立場から物事を感じたり考えたりする必要性がなくなっていくということでもある。

精神的に自立するということはつまり、自分を自分で守っていかなくてはいけないという意識が大きくなるということであり、その心境を長く持ち続ければ持ち続けるほど、必然的に自分の世界の扉を他人に開く事に抵抗を感じるようになるだろう。ところが自分のことばかり考えなければいけないというのも、自分の心を自分でケアし続けなければいけないというのも、実際は大変煩わしいことではないだろうか?

「いつか理想の家庭を築くのは夢だけど、誰かに頼って生きていく事へは少し抵抗があるし、まだそんなことを考えてる余裕ないな~。」

そんな風に思っていたあの頃の私に、今ならそっと教えてあげたい。

「誰かに頼って生きていく」という事は、決して臆病者みたいだとか自尊心に欠けているという意味ではいし、自立心を欠いて、誰かの重荷になるという意味でもない。その関係が、互いを気遣う深い思いやりと、責任感と信頼の上に成り立つ確固としたものであるならば、また、そうあり続ける努力を続けるのなら、それは利己心の無いお互いへの立派な忠誠心そのものであり、心の強さの表れなのだよと。

 

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