NZの幼児教育現場から見る真の国際人の定義

小学一年生の時に生まれて初めてもらった通知表の備考欄に書いてあったことについて、今でも鮮明に覚えている。

“〇〇さんは、皆と一緒に行動するのが苦手なようで、協調性に欠けています。休み時間には同じクラスのお友達と遊べるようにがんばりましょう。”

当時の担任教師の相当おかしなこのコメントは、当時の私の幼心には「なぜ自分は休み時間に自分が遊びたい隣のクラスの友達と遊んではいけないのか?」という疑問としてしか残らなかった。もちろん大人になった今は「誰かと同じことをする」ことが協調性という意味ではないとわかるけれど、それまでは、いわゆる学校の集団生活は自分にとって居心地の悪いものだった。

そもそも通知表に「団体行動ができる」という項目を設け、それに優劣をつける事に抵抗を感じない日本人の国民性は実にユニークだ。日本人として日本で生まれ育った人たちは、それが日本の社会生活に適応していくために大切な概念であることを幼少期の頃から日常生活で自然に学び取っているため、意識すらしていないかもしれないが、そんな人たちが一度海外に出ると、それがいかに特異なものであるかに気付かされるだろう。

例えば、海外の幼児教育現場に携わっている私には、その違いが面白いほどよくわかる。

私は現在Early Childhood Educator(保育士/幼児園教諭)として、地元のとあるEarly Leaning Centre(0歳~6歳の就学前までの乳幼児たちが学ぶ機関)で働いている。多国籍移民国家であるニュージーランドで様々な人種の幼い子供たちの発達と学びをサポートするにあたって一番大切にしていることは「個」である。そこにはここが持つ文化背景、言語、食習慣、宗教、生活習慣・家庭環境はもちろん、興味の対象、成長・発達の度合いの違い、すべてが含まれている。

このニュージーランドの幼児教育理論のベースには、「Te Whāriki 」(テ・ファリキ)と呼ばれる教育カリキュラムがある。因みにTe Whārikiとは、NZの公用語の一つであるマオリ語で「織り込んで(編み込んで)作ったマット」を意味し、このカリキュラムが4つのPrinciples(原則)とStrands(織り込まれるもの)を縦横に編み込んだ形で構成されていることを表現している。

 

Te Whāriki 4 Principles (4つの原則)

  1. Empowerment  自主性を養う
  2. Holistic Development 総合的な成長(発達)を目指す
  3. Family and Community 家族と社会からの影響を大切にする
  4. Relationships 関わりを持つ人・場所・物全てをその子の学び・発達に関係付ける

 

Te Whāriki 5 Strands (5つの織り込み)

  1. Well-being 子供自身の心身の健康
  2. Contribution 子供自身の積極性と意欲
  3. Exploration 子供自身の探求心
  4. Belongings 子供自身の帰属意識
  5. Communication 子供自身の伝達能力と自己表現力

 

Te Whariki

このように、ニュージーランドの教育現場で最も重要視することは、主役は常にHe(彼)とShe(彼女)であるという考えに対して、日本の教育現場ではWe(私達)を重んじる傾向がとても強い。

私は過去数年前に我が子たちを日本の幼児教育機関(私立保育園/公立幼稚園)に数か月間通わせた事があるのだが、その時にまず驚いたのは、その「統一性」に対する拘りだった。例えば、着るものから持ち物まで、実に細かい規定が決められており、とにかくすべてが理路整然としている。先生は季節の行事や文化・日本の伝統に基づいたアクティビティーを完璧に企画・準備し、子供たちは用意されたアクティビティーに全員そろって参加する。子供たちは、自分たちが何をどう理解し、どのように行動するように期待されているかを知っているのだ。

日本の子供たちは、幼いころからこうして自分が集団の一員としてどう振る舞うべきかについて自然に学ぶ環境で教育を受ける機会を得るが、これは結果的に日本人全体が持つ特有の「和」と「一致」の精神を育む基盤となっている。

そして、日本の園内での言語コミュニケーションに注目してみると、先生達は子供たちに話しかける場面のほとんどで「主語」を使わない。

「今から○○で、○○を作るよ。」

「手、洗った?」

「分かった?」

誰が・・・という主語をそこに加えなくても「そこにいる彼(彼女)が・・・」「自分が・・・」又は「皆で一緒に・・・」というニュアンスは、その場にいる全員が共通意識を持ち、把握できているはずだという概念があることが前提になっているので、それだけでも十分に会話が成り立つ。そのような概念は、幼いころからの「自然に集団意識が高まるような教育方針」「和と一致を重んじる社会環境」の中で自然に身に付くものなのだろう。

英語ではこのような「主語の欠落だらけの会話」が成り立つという事はあり得ない。個人の存在や意思をはっきり主張するように、I, You, He, She, They…という主語を使わなければ円滑なコミュニケーションを図ることは難しいのだ。

また、NZのような多民族・多文化の融合で成り立っている国では、当然「和」や「一致」の精神は生まれにくい。たとえ公共言語を一つか二つにまとめたとしても、その言語を発する個人が持つ背景が違うので、日本に住む日本人同士の間に感じられるような共通意識は存在しない。例えば、筆者の勤務する園には「相違意識」しか存在しない。というのも、子供たちと職員が持つ個々の民族・文化・言語背景は実にバラエティーに富んでいるうえ、園のポリシーである「Inclusive Environment」(わけ隔てのない包括した環境)の下、自閉症、発達障害、ダウン症、多動症など、様々な個性を持った子供たちにもそのドアが大きく開かれているため、一人一人に必要なケアやニーズが全て違い、「みんな違って当たり前」という意識そのものが「共通意識」として根付いているのである。

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園児たちが家庭で使っている言語の一覧

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園児たちの民族・文化背景の一覧(ここにマオリ族も入る)

この共通意識の有無については、どちらが良いわけでも悪いわけでもなく、ただ違うという事だけであって、そこはこの話の焦点ではない。ポイントは、その「違い」を自分がどう感じ、どう受け止めるかによってグローバルな意識を持つことができるか否かが決まるということである。そして、語学力があれば国際人、又はグローバル意識を持った人であるというのが間違いである理由はそこにある。

日本語は、主語がなくても当然のように伝わる言語であり、日本で生まれ育った人たちが持つ「共通意識」は、日本で生活していく上では必要不可欠なものであるが、その意識を海の向こうに携えていく必要はない。海の向こうにでは、人々は皆「個」であり「異」である。だからからこそお互いを理解する為にコミュニケーションを図ろうと努力を重ねるし、相手の立場になって物事を考えられるようにもなる。主語のない言語でコミュニケーションを図る人々は、彼らが持つ特有の共通意識を脱ぎ捨てることができた時、「自分は相手にどう思われるべきか」を気にするのではなく、「自分は相手をどう理解し、受け入れるべきか」ということを考えることができるようになる。

かくして、どの国でどのような環境で育ったとしても、自分と相手の違いを楽しみ、違いから学び、互いに共有できるものを分かち合い、互いを尊重し合うことができる人こそが、グロバール意識を持つ真の国際人なのだと言えるのではないだろうか・・・。

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